母の味

生物学的に言えば

わたしはとても弱い個体に当てはまる

アレルギーや病気を繰り返すだけではなく

社会の基盤となる人間関係を築ことすらままならず

肉体的にも精神的にもとても弱い個体であった

 

本人もそれなりに苦労したが

この個体を育て維持してきた人々が一番苦労したのだと今では思う

そう、両親だ。

 

動物社会でなら真っ先に淘汰され、そして淘汰を容認されてもいいはずだが

人間社会ではそうは問屋がなんとやら...で彼らは多大な苦労を繰り返してきた。

両親自身も「感謝さえこそすれ、恨まれる理由などあってたまるものか」と。

まさに、その通りである。

 

前置きが長くなったが

先日、母が風邪を患い「おかゆが食べたい。」と言った。

よっしゃ任せろ。と作ったがいいが

米から作ろうとすると意外にも時間がかかるこの料理。

ブクブクと泡が生まれるたびに小まめに混ぜねば

焦げてしまうという地味に手間もかかる。

クックパッドで調べ完成したおかゆを 

母は「芯がある...」と呟きながら食べていた。

思い返せば、おかゆなぞ自分で作ったことは一度もなく

むしろハンバーグや餃子のほうがレシピを見ずに作れるくらいだろう。

 

 

そう。

その時気づいたのだ。

実は おかゆ とは、特別な料理なのだ、と。

自分ひとりが病に伏せれば、料理するまでもなく

コンビニというコンビニエントなツールを使えば事足りる。

しかし、おかゆとは

パーティ料理のような華やかさなど微塵も含まないが

病に伏せった相手のことを気遣ったという特別な時に振舞われる料理なのだ。

 

病気になる度、幾度となく振舞われたおかゆ

母はわたしに何度も何度もこの料理を作ってくれたのだ。

熱いおかゆに塩気の効いた梅干し。

わたしにとって、安堵や安心の代名詞のようなこの料理に

気づかなかった想いを感じた、そんな日だった。

 

 

進歩と退歩のはかり方とは

自分があまりにも阿呆故に昨年の4月より新聞を読み始め、気になる記事はスクラップする事にした

 

やっている事がそもそも中学生の様で自分をつい笑ってしまう
しかし凡庸をはるかに下回るわたしのオツム(オツムとオムツをよく読み間違えながら、たまごっちを育てた記憶が喚起された。皆良くやると勝手に思うことにする。関係ないけど)では視野や社会を知る手段がこれしか思い浮かばなかった
しかし実際やってみると、これが結構面白い

 

主に次の2点
・記事発行当時の自分の考えと時間が経った現在での自分の考え方の違いに驚く
・年末に見直す事により自分の興味傾向が明確に把握できる

 

記事の横に簡単な感想やコメントを書きながらスクラップしていた故
"その時のわたし"は、そんな事を考えていたのか!と驚き、
そしてそのコメントが割としっかりしていて、この人本当にわたし なの?わたしこんな頭イイっぽい事考えていたの?天才かよ!と。

さてここで一つのプチ疑問。当時の自分を自分と認知できず他人だと思う場合は、「自画自賛」に当てはまるのか?
うーん。(やはり自分はまだまだ阿呆を卒業出来そうになさそうだ

 


過去の自分と今の自分。進歩したのか退歩したのか
知識の蓄積や技術の体得では、進歩退歩を図れるが
思想の仕方や感想ではそれは測る事がむつかしい…

スクラップによってそんな事を発見した年末年始でした

 

あけましておめでとうございます
本年もひっそりとよろしくお願いいたします

 

2017年 年始の 9g      (笑)

無意識を意識に引き入れるには

 どうも、9gです。(この一文を設けるだけでなんだか気恥ずかしい気分になった。関係ないけど

 

今年に入ってからちょっとしたキッカケによって本を選ぶ基準に1つのルールを設ける事にしたよ、という話。

 

そのルールとは
「『〇〇がオススメするbest△△』のうちから読む」
という単純なもの。要するに人に選んでもらおうぜ、ってコト

 

今迄のわたしの読書の仕方は、(自分の)気になる!を手に取り無意識に意識の支配によって本を選別していた
そして書評や流行の本を読むことは「そんなのミーハー意識高い系のやる事よ!」とバカにすらしてました (すみません

 

ところがこれを他者や書評に委ねると
途端に、自分の全く読みたく無い興味の無い本まで読まざる得なくなり
なんでこんな意味不明な本を読まにゃならんのか…?
と勝手にイジケ始めた頃、
あれ?なんか全然興味無い分野だったけれど何だか楽しいものもあるぞ?世の中って今もしかしたらこんな流れなの?
なんてことが度々起こり

 

ああ、うん。
本当自分が間違っていたな。と思いました

 

他者がオススメする本は自分で選ぶ訳では無い故に新たな発見を齎したり
書評が高いものや流行りの本は、世の中の動きを推察する鍵になり得る。
そんな事にこの歳になり漸くわかりました

 

なので最近は積極的に流行りの本を、読むように心がけています
因みに読みはじめが辛くて放置している数冊のうちの1つが
銃・病原菌・鉄 (上・下) 1万3000年にわたる人類史の謎
10月中には読破できると良いな。と思いつつ9月は2冊しか読書できていないのを静かに叱咤してiPhoneを置く事にします

 

 

立ち止まって初めて見えるものがある。

私はこの言葉を聞くたびに
おいおい、
在り来たりな言葉でな上に、そりゃ立ち止まってしまったことへの慰みの言葉だぜ。
なんて捻くれ者のように思っていた(しかも心の中でケッ!って顔しながら)

でもまあ
なんていうか

立ち止まったら、
見えました。
タンポポとかアリンコとか
さらにこのままチビ?トトロ(あの白いやつ)まで見えちゃうんじゃないかってほどに。
気づきました。
あれ自分こんな色の靴履いてたんだ、なんて。


本当、体験してみないと気づかないとはよく言ったもの。これまたありふれた言葉ではあるけれど
しかし在り来たりな言葉というのは、それだけ使い古され洗練されたが故の“本質”を内包している。ということなのかな、と。


全力疾走から大コケして地面に突っ伏したまま
2度と立ち上がれないんじゃないかな。なんて思って額を地面にこすりつけて何も見ようとしなかった。
しかし突っ伏した先でドングリが見つかったり
仰向けに転がってみたら、月があんなに綺麗だったり。

転んだ先で、見つけたものを胸にしまって
また歩き出せたら、今度は走っても、タンポポにもチビトトロにも目が広げられそうだな

そう、転んだおかげで見つけられたものは、
実は本当に多かったりしたのかもしれない



今度ドングリが落ちてたら辿ってみよう



死ぬほど美味いという領域の感覚

他人の恋人の話を耳にすると、何故だかとても寂しくなるのは何故なのだろう。
asexual寄りなのか。はたまたmonogamyを極めてしまっているのか、今まで1人しか好きになった事が無い自分にとって、
桃源郷や永遠に手に入らない楽園のような、そんなもの哀しさを感じてしまう

例えるなら
自分にとって嫌いな食べ物を他人が「こんなに旨いものは他にない!」と食べるのを見るような。
“死ぬほど旨いという領域の感覚”を知っていることが羨ましい…

まあ、ようするに
恋に恋い焦がれて、いますよね
恋。という感覚。を感じたい



ポジティブを取り入れる

ネガティブで暗く沈んでいる時、
“積極的”に周囲のネガティブを集めてしまった気がする。
(どうしてそこで積極性を出してしまうのか、とても不思議だが、この疑問はあえてまた今度考えることにする)

ポジティブから逃げに逃げたにもかかわらず、逃げる過程でさらに、
周囲に落ちているネガティブを拾い集め、坂道を転がる雪玉のように負のエネルギーを溜め込んでしまった。

でも、ネガティブになっている時、皆?もこんな感じではないかな。と私は思っている(勿論違う人もいる)

しかし過ぎて(負のエネルギーを集めて)しまったことは、仕方がない。

なので、まず、

集めることをやめよう。純粋に逃げる。
これだ。

ネガティブになってもいいけれど、
周囲のネガティブまで拾い集めない。
そしてそれを部屋にディスプレイとかしない。
あわよくば、ポジティブを取り入れる。

ここでいうポジティブと言うのは、自分の中で楽しいと思える欠片を虫眼鏡で見ること。
ネガティブになっているとつい、ネガティブに身を委ねがちだけれど
小さなポジティブを足がかりとして残しておくのは割と大事なことだな。と。

まあ、それが出来れば
そこまでネガティブになってないよ。
という気もするけれど。

とりあえず、
集めない。これから。